おゆみ城の位置とその時代
市原市は旧国名では上総にあたり、千葉市を南端とする下総とは北側に国境がございます。とはいえ、緑区の土気や東金は上総となりますが。
市原市の最西北端に位置するのが、ちはら台。このちはら台と今から三十数年前に当時の日本住宅公団(いまのURですね)により、シティアンドシティとして、ペアで開発されたのが、隣接する千葉市緑区のおゆみ野でございます。
首都圏ケーブルメディアのホームページによれば、その語源は応仁期(西暦300年頃:卑弥呼が魏に遣いを出したのが239年です。丁度大和王権が成立して半世紀くらいでしょうか?)に、関東に配された朝鮮系帰化人の工芸系部民である、麻績連(おみのむらじ)の「おみ」が変化したとされます。さらに源頼光が上総赴任の途中に、今も残る八剱神社に大弓を奉納したころ以降から、「小弓」の表記が一般的になったとも。ただ、源頼光は備前、美濃、但馬、伊予、肥前、摂津などの守を歴任していますが、関東以東には多分足を踏み入れていないと思われ、これは伝説かもしれませんね。
おゆみ野に隣接する生実町に今も残るのが、八剱神社で、これは南生実の総鎮守と耳にしたことがございます。この界隈にございましたのが「おゆみ城」であります。
表記としての小弓が生実に替わったのは、千葉氏(一族でもありますが)重臣の原氏が、真里谷氏に追われた後に復帰した際のことです。一時期真里谷氏が小弓公方を担いで原氏を追い君臨しましたが、小弓公方足利義明が第一次国府台合戦で滅亡後、旧来の城主原氏が復帰して「生実」と改めてからの表記となりました。
その後は後北条氏が豊臣秀吉に小田原を攻められるまで、原氏が。そして江戸初期(家光時代)には酒井重澄が2万7千石で封じられ、その後改易となり寛永4年から譜代大名である森川氏が生実藩主として明治まで紆余曲折はありながら、明治4年の廃藩置県で生実県になるまで続いています。
さて話は前後してしまいましたが、最初にこの小弓城が築かれたのは、現南生実町に千葉氏が上総との境界付近の守りとしてであり、一族の重臣である原氏の居城とした時といわれてます。
戦国初期の1500年頃の記録に残る城主は原胤隆(はらたねたか)。この頃には小弓城が成立しているということですね。
この時代、本願寺の隆盛の元となる蓮如がこの前年に亡くなり、伊勢早雲(後に氏綱が北条氏を名乗る)が小田原に入ったころといえば、判りやすいでしょうか?武田信玄の父信虎はまだ6歳。当然信長も秀吉もまだ生まれていません。
室町時代の上総・下総の状況と生実公方
少し視点を変えて大まかに室町時代のこの辺りの状況として、鎌倉公方の内紛と当時の上総、下総を整理しておきます。室町時代初期、足利幕府により足利尊氏の子足利基氏が鎌倉に下向して、鎌倉公方として関東の抑えのために支配するようになりました。公方というのは将軍と同意味です。
この鎌倉公方家、次第に本家である足利将軍家に対立して、将軍後継争いなどに口出しをしたりするようになり、4代持氏は6代将軍足利義教(よしのり)と武力衝突して、敗れて自害と相成り鎌倉公方家は滅亡し、持氏の遺児の多くも結城合戦などで将軍義教に殺されます。
しかし義教将軍が嘉吉の乱で死去すると、持氏の遺児足利成氏が鎌倉公方として復帰します。
成氏は関東管領上杉氏と対立し鎌倉を追われましたが、1455年に下総古河城(現古河市)を本拠として古河公方と呼ばれ、独立した勢力となります。
まあ源平合戦前後でお馴染みですが、清和源氏(河内源氏)というのはどうも頼朝と義経など親子兄弟で対立して、殺しあうのがパターンとなっているようで。足利氏も尊氏、直義兄弟がやっておりますし、権力争いというのは遺産(権力といっても良いかもしれませんが)
相続に発する現在も同様ですな。
こちらの古河公方家も同様で、成氏の死後内紛が頻発しまして、2代目の足利政氏と3代目足利高基の親子の対立(永正の乱)がございました。この高基には僧侶となっていた空燃(こうねん)という弟があり、この弟が還俗して足利義明と名乗ることになります。これがのちの小弓公方でございます。
さてこの頃(戦国初期)の上総には信玄でお馴染みの甲州武田家の分家であり、武田信満の次男である武田信長が古河公方(足利成氏の時代)の家臣となり、その命を受けて上総に攻め込み、関東管領上杉氏の所領を横領するなどして戦国大名化しておりました。この一族を所領名により真里谷武田氏とか真里谷氏と呼びます。この5代目の真里谷信清が、この足利義明を永正14年(1517年10月)頃に原氏を追いだし、小弓城に迎えて小弓公方として擁立したわけです。
この小弓公方に味方したのが、安房の里見氏、千葉市の一族である臼井氏、常陸の小田氏などです。
そしてこの頃には小田原に本拠を持つ後北条氏(2代目氏綱)が、伊豆・相模両国を制圧しており、大永4年(1524年)に扇谷上杉朝興の江戸城を占領して、今の東京湾西部の海上権を完全に制圧します。小弓公方義明が小弓城に入った7~8年後ということになります。当初は古河公方へのけん制から後北条氏とは連携を模索していた節もありますが、東京湾東部を支配していた、小弓公方(真里谷氏、里見氏)と対立するようになります。
逆に義明を排除したい古河公方家と、東京湾全体の海上支配を目論む後北条氏の利害は一致することとなり、盟約を結ぶことになります。
意外なようですが、陸路よりは直接水運の発達や、軍勢を運ぶためにも東京湾の価値は高く、北条氏も里見氏もそれなりの水軍を整備していたようです。
その後小弓公方義明は真里谷氏の内紛や里見氏の内訌に乗じて、上総から安房に至る支配力を強くし、お飾りではなく南関東の大名を統合して一大勢力となりました。
第一次国府台合戦
この関東の2大勢力が実際にぶつかり合ったのが、天文7年(1538年)の第一次国府台合戦となります。10月7日に江戸川を渡河して松戸城を経て、進軍してきた北条軍(氏綱、氏康等)1万8千は、現松戸市の国府台北部の相模台にて、義明率いる小弓公方軍(里見・真里谷)1万2千と衝突。義明公方は僧侶上がりとはいえどうも武勇に優れていたらしく、自ら陣頭で指揮するなど大いに奮戦し当初は優勢でした。しかし里見義僥はもともと消極的であり、真里谷氏も家督争いに介入した義明公方に不快感を抱いていたこともあり、士気は上がらず。やがて数で優る後北条氏の反撃により、義明公方最後は弟や嫡子の討ち死にに逆上して自ら突撃をはかりましたが、北条軍の兵士の弓矢に当たって討ち死に致します。
義明公方討ち死にの情報を得るや里見義堯は結局一度も交戦することなく戦場を離脱、小弓勢は壊滅状態となります。
義明公方死後、後北条氏の支援を受けた千葉氏が小弓城を奪還し、原氏が再び入ることになります。義明公方の遺児たちは里見氏を頼り安房に逃れ、以後紆余曲折を経て、徳川氏の旗本喜連川氏として明治に至ります。
その後豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏は滅び原氏も同様。ただこの小田原合戦時に義明の次男頼純は娘が秀吉の側室となり、里見氏の支援を受けて小弓城を取り戻して、数か月ですが小弓公方を復活させました。この系統が喜連川氏となるわけです。
一方でほぼ戦わずに撤退した里見氏は真里谷氏の支配下の久留里城や、大多喜城を占領し、房総半島の大半を手中に収めることとなり、江戸時代に改易になるまで一大勢力として残ることとなります。
江戸時代の生実と森川氏
この小弓城は大百池公園の西側の台地から、森川氏の陣屋跡とされる生実神社くらいまでが城跡とされます。元々南生実城(原氏築城)と北生実城に分かれて(時代的にも)いたと、されますが、近年の発掘調査ではこの二つの城を併せて、小弓城としたのではという説も出てきています。南生実城跡は八剱神社の裏手に上り、左に進むと現在は墓地となっており、千葉市の案内板が設置されています。なかなか判り難い場所ではありますが。
北生実城については生実神社の東側に大手門跡の石碑があります。
いずれにせよこの城は義明公方亡き後も、千葉氏と後北条氏にとっては、秀吉の天下統一までは里見氏に対する最前線の城ではあったようです。
江戸時代に入り、三代将軍家光によりその寵臣であった酒井重澄(しげずみ 従五位下 山城守)が元和9年(1623)2万5千石で生実に封じられます。が、10年後の寛永10年(1633年)に勤務怠慢で改易となります。その理由が病気療養中に、子供を作ったことに家光が激怒したというのが、なんというか面白いというか、やれやれというか。
そしてその後に森川氏が入ることになります。
初代藩主は森川重俊(しげとし)。関が原では秀忠に従い信州上田で真田昌幸と戦い、足止めをくらい、結局関が原には間に合わず家康から叱責を受けた、有名な話の一員ですな。
その後旗本として下野に3000石を与えられますが、不運にも大久保多忠隣改易事件に連座して改易となり、酒井家次に身柄を預けられます。この大久保忠隣改易事件も良く判らない事件ではあり、未だに本田正純による陥れみたいな説もありますが、判然としません。連座といっても忠隣の養女を娶っていたというだけ。この時代の徳川譜代の足の引っ張り合いに巻き込まれたといったところでしょうかね。
その後慶長20年(1615年)に酒井家次に属して大坂夏の陣に出陣し、武功を挙げて赦免再登用され、秀忠近習として復帰し、生実藩を中心に1万石の大名となります。
その後老中(1631年)まで累進しますが、翌1632年秀忠が亡くなると追い腹し殉死。
その理由としては秀忠との衆道による寵愛(男色)が挙げられますが、これも秀忠に近すぎ家光の弟である徳川忠長(後に家光に殺されてしまう)派と見られることにより、改易を恐れたというのが、本当のところかもしれません。享年49歳でした。なかなか大変な時代でございます。
※三代将軍の就任に際し、秀忠の正妻お江(浅井長政とお市の間の3女、千姫の妹)が次男の忠長に肩入れし、秀忠もそれに近かったようで。ここで乳母の春日局の家康への直訴で、長男の家光の三代将軍が決定したという、お馴染みのお話でございます。
森川家はその後もここ生実に陣屋を構えましたが、ほぼ幕府のテクノクラートとして若年寄りなどの要職を累代勤め、こちらにいることは殆どなかったようです。
千葉県には珍しい、いわゆる江戸時代を通じて森川家が治めた藩です。大政奉還後に徳川家は駿河に移封となり、千葉県内には駿河などから移封となった小藩が、旗本領などに建てられますが、この地はそのまま森川さんが知藩事となり、廃藩置県に至ります。
城の西側の生実池のほとりに初代藩主森川重俊の慰霊のために建立された、曹洞宗の重俊院があり、江戸時代の城主(まあ、陣屋ではありますが)森川氏の累代の墓碑がございます。いずれにせよ大百池から生実池までのそれなりに広大な敷地となりますね。歩いて20分程度の歴史散歩には程よい距離感です。